★Kenro Songs/旅と料理と音楽と

前期高齢者となった元・正社員サラリーマン(現在はパートタイム契約社員)は、旅と料理と好きな音楽の話と、オリジナル曲の制作で余生を過ごすのです。

神戸:手塚治虫記念館へ行ってきました

  今回も「音楽」の話題ではありませんが、偉大なクリエーター/ストーリーテラーについて話をさせてください。 

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「大阪・神戸エンタメ・B級グルメツアー」の後半は神戸です。

 よしもと新喜劇を見た翌日、妻と義兄の嫁さんを宝塚大劇場にある「Salon de Takarazukaステージスタジオ」に連れてゆきました。ここでは、歌劇のスターと同じ衣装に身を包み同じ化粧をして、ポーズを取りながら記念写真取ってもらえる「メイクステージ(舞台メイク)」というサービスがあります。妻から「一生に一度でいいからやってみたい」という依頼があり、2か月前にnetで予約をしていました。

 所要時間は約2時間とのこと。さすがにただ待っているわけにもいかないので、私と義兄は、暇つぶしもかねて、宝塚劇場のすぐ近くにある「手塚治虫記念館」を見学に行きました。

www.city.takarazuka.hyogo.jp

  なおB級グルメツアーの詳細はもう一つのブログをご覧ください。 kenro1601b0.hatenablog.com

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 訪館の2日前、今年2018年11月3日は、「漫画の神様」こと手塚治虫先生の生誕90年だったそうです。宝塚市は手塚先生が5歳から20年間住んでいたところで、それを記念して設置されたこの記念館では、手塚さんの作品や関係する資料などを集めて常設展示しています。

 手塚先生は17歳でデビューしていますから、ここ宝塚市は「天才漫画家・手塚治虫」のまぎれもない「故郷」なんですね。「宝塚市立」=公立というところがすごいです。

 

 「火の鳥」のモニュメントを見ながら入館すると、物腰穏やかな女性スタッフさんが迎えてくれました。

 1階ではデビューの頃からの作品(単行本)のいくつかが、カプセルに入った形で展示されていました。また奥のミニシアターで20分のオリジナルアニメ「オサムとムサシ」という映画を上映していました。第二次大戦中、子供時代の自然や虫たちが大好きな手塚少年が、隠れてノートに漫画を描いていたころのお話。「紙の砦」という作品に描かれていた自叙伝の一部をアニメ化したもののようです。

 エンドロールを見ていて、プロデューサーは手塚さんの息子の真さんだということが分かりましたが、その後、監督:りんたろう 音楽:冨田 勲という二人の巨匠の名が入っていて、東映動画ファンでもある私は、驚きとともにしみじみしてしまいました。

 

 2階ではフランスで開催された「アングレーム国際漫画祭」の凱旋展が行われていました。手塚作品の単行本や漫画原稿の一部(印刷直前の、ホワイトや吹き出しの写植文字も生々しいもの)を、作品ごと・時代ごとに展示し、その作品の書かれた事情や手塚先生の工夫や苦悩まで、詳細に深堀して解説していました。

 ロシアの文豪ドストエフスキーの名作文学を漫画化した「罪と罰」などもあり、私はけっこうリアルタイムで読んでいましたので、「ああ、この作品はそうだったな」「この場面は読んだことあるなー、こんなふうにホワイト(白いポスターカラーによる書き損じや汚れた部分の修正)が入っていたのか」など、懐かしさを感じながら見学しました。

 

 ちなみに、私は小学生の頃は漫画小僧で、毎日学校から帰ったあとは書店に行き、一日2時間くらい漫画雑誌の立ち読みをするほどでした。その頃私の将来の夢は「漫画家になること」でしたし、中学校時代は自分で画材を買ってA4ケント紙に墨汁とスクリーントーンで漫画原稿を書いたりしていました。(ろくなものは書けませんでしたが) 手塚さんが主催した半分同人誌のような雑誌「COM」も、毎号購読していました。〈館内にCOMの展示もありました)

 

 2階の奥には、昔、講談社が20年くらいかけて刊行した「手塚治虫漫画全集」があり、自由に読むことができます。私は一番読みたかった「ふしぎな少年」を一心不乱に読んでしまいました。

 この話は、四次元のことがモチーフになっていて、ある中学生の少年が四次元に迷い込んだことから時間を止める能力を身に着け、それを利用して悪者をやっつけ市民の平和を守ってゆくお話で、どんなに凶悪な外国のギャング団が暗躍しても国際問題にはならず、一般市民目線での勧善懲悪が実現していて(当時、自分にはそんな語彙はありませんでしたが)安心して楽しめる作品でした。 

 自分の年代で手塚治虫さんと言えば、1950年代後半から60年代一杯くらいまでの、SFに根ざした冒険もの・ミステリーものを連続して書かれていた時代が一番好きですね。(私は1958年生まれ)

鉄腕アトム」:「地上最大のロボット」が一番好きかな。(いづれ人口が減少した日本は、アトム一家のようなロボット家族が人間と同じように生活する世の中になるのでしょうか?)吾妻ひでおさんも言っていた通り「ホットドッグ兵団」は本当にかわいそうだった。「地球最後の日」は、タイトルはすごいけど話とキャラクターが今一だなと思っていましたが。

「フィルムは生きている」:主人公・宮本武蔵のアニメーションへの一途な思いが感動を誘います。ライバルの漫画家・佐々木小次郎が意外といい奴だったのも泣けた。作曲家ベートーベンの「ハイリゲンシュタットの遺書」のエピソードを学んだのは、確かこの漫画です。

「ビッグX」「マグマ大使」「W3」「フライング・ベン」「どろろ」「バンパイヤ」「グランドール」:異形の人間、人間と動物/人間と鬼(異生物)との間(混血ではない・・・今で言うハイブリッド)の生物という概念に心を奪われた作品群。

「バックネットの青い影」なんて、怖かったなあ。 部屋の中を何度も振り返りながら読みましたね。

 私は手塚治虫さんと藤子不二雄(特に藤本弘さん)に、情操教育をしてもらったようなものです。一番学んだのは「正義感」だったと思います。

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(館内案内パンフレット)

 手塚治虫さんは1950年のデビュー以来、常に漫画界の第一線で売れっ子作家として地位を築き、アニメーション制作会社(虫プロ)の設立などもあり、現代ではすっかり「漫画の神様」と賞され、その人気・実力の評価は不動のものですが、しかし1970年代、一時人気に陰りが出た時期があります。

 当時は、漫画雑誌の主流が月刊誌から週刊誌に移る時期でしたが、毎週必ず複数の雑誌に手塚作品が乗っていました。しかしその後は時代が変わり読者が成長・成熟したことに伴い、劇画ブームや青年向けコミック誌の台頭が起こった結果、漫画も夢物語ではなくリアリズムに走らなければ受けない(売れない)時代になり、手塚さんは時代に合わせて作風を変え、だんだん子供向けの作品は描かなくなってしまいます。

  当時、中学生になった私は、あの「楽しい、わくわくする手塚漫画」はすっかり影を潜め、画風が大人向けに変わり、ストーリーもリアルでシュールな現実を突きつける、身もふたもないものに変わったことを感じていました。

 私はそれでもファンでしたから、しばらくの間は中学生のくせに青年誌まで手を伸ばして読んでいましたが、いつの間にかテーマが重くなり、ハッピーエンドが期待できなくなり、したがってだんだんと読後感が悪くなり、中には吐き気がしそうなものもあり、しだいに私は手塚ファンではなくなってしまいました。

 そして子供時代にあれほど愛した、素直で・純粋で・強くて・可愛い「鉄腕アトム」を、作者自らが貶め、汚し、古くて役に立たないものの象徴としてゴミのように扱った「アトム今昔物語」を読むに至り、私は深く心を傷つけトラウマを作ってしまいました。

 そのトラウマがどうにか癒され、手塚作品をリアルな人間ドラマとして通読することができるようになったのは「火の鳥」だったでしょうか。それでも「復活編」での重要なキャラクターであるロボット「ロビタ」は、今でも心の中に刺さったままの「トゲ」なのですが。

 ちなみに、火の鳥復活編とロビタに関しては、古今亭凡渡さんという方が2年前に

下のブログで詳細を解説されています。ご興味のある方はどうぞ。

bond-kokontey-bond.hateblo.jp

 

  当時、幼稚園でいじめにあい、小学校でも主流グループの動きを遠巻きに眺めるしかできなかった子供の私が、浮世を忘れて夢中になれる「娯楽」だった手塚漫画が、やっと多くの主人公達と同年代になって「これからいよいよ満喫できる」と思ったとたん、流行や社会問題を定義し考察し「悩ましい現実をつきつけるメデイア」に変わっていってしまったんですね。

 今にして思えば、それは漫画と言う表現方法そのものが、今日、日本人の文化や精神的アイデンティティまでも表現する大きなメソッドとなり、Cool Japanと言われるほど称賛を浴び、世界中の少年少女までが夢中になるギガメディアとして成長するに至る過程で、逃れることのできない「脱皮」あるいは「洗礼」だったのでしょう。

  当時、手塚先生はその流れに乗って、自分がトップを走って育ててきた漫画の世界においてもう一度トップを取り戻すために苦悩し、漫画を単なる子供のための暇つぶしの道具から、真のトータル・エンタテインメントのための新しいメディアとして確立させるために、更なる努力を続けておられたのだと思います。その働きかけがあったからこそ、そのDNAを引継ぐ後進の作家〈大友さんやら浦沢さんやらetc.etc.〉が世に出て、世界中の評価を受けるに至ったのでしょう。

 改めて見直してみると、手塚治虫は「漫画の神様」と言われますが、ここで言う「神」の「技」とは、それまでの、子供向けのおとぎ話の延長でしかなかった「漫画」とはちがう、現代に血がつながるホモサピエンスのような「マンガ」や「アニメ」を生み出した造物主であること、その種の子孫のために基本のメカニズムや多様性をいくつも生み出し、定義し、DNAに書き込んで残したこと、ではないでしょうか。

 手塚先生は平成元年2月に60歳で亡くなられています。今の私と同じ年齢ですが、今にしても手塚先生の足元にも及ばない自分の凡人ぶりを、改めて思い知らされた気がしました。

  記念館の中に滞在したのはわずか2時間ほどでしたが、私の中では時間が止まり、50年以上の過去にタイムトリップした思いで、ただただ童心に帰って立ち尽くしていました。手塚治虫=本当に偉大な才能でした。 

 

 なお「手塚治虫記念館」は、リニューアルのため2018年12月25日から2019年3月31日まで休館とのことですので、これから行こうと思われる方はお気を付けください。

 今回、ちょっと思い入れが強すぎましたかね。ではまた。